志紀長吉神社と真田幸村公

1567年 武田信玄支配下で信濃国上田城主である名将真田昌幸の次男として誕生
1586年
~1589年
父、昌幸の仲介により豊臣秀吉公に仕え、兄の信之は妻が本多忠勝の娘ということもあり、徳川家康に仕えることになる。
1600年 昌幸・信之・幸村・家康と共に会津の上杉景勝を討つため関東に向かうが後日、豊臣家五奉行から家康を討つべき旨が出される。昌幸らの陣に石田三成の使者が到着する。昌幸・信之・幸村の3人で真田家の去就を話し合い、昌幸・幸村は西軍につき、徳川の陣を離れ上田に向かった。信之は、徳川方に残り、その旨を家康に報告し、徳川秀忠軍は、昌幸・幸村軍の篭る上田城を攻めて敗れる。その後、関ヶ原の合戦で豊臣軍が敗れる。家康より、昌幸・幸村は高野山麓の九度山に配流され、その11年後父昌幸が病死。このとき、幸村34歳。
1614年 家康が大坂城攻めに動き出す。(大坂冬の陣)
幸村、豊臣秀頼より要請を受け、子の大助と共に九度山を出て大坂城へ向かう。大坂城惟一の弱点である三ノ丸南方(現在の玉造あたり)に、 出城、真田丸を設けて豊臣方を護り、徳川15万をの歴戦の武将を相手に、善戦を続ける。前田利常、藤堂高虎らを挑発し ついには徳川軍の士気を完全に萎えさせることに成功する。ついには家康は、真田丸を攻めつづけるが一向に破れず、 業を煮やした徳川家康は狙いを大坂城の淀の方のいる場所めがけて300発あまりの大砲を断続的に打ち続ける。これにより淀の方の側近8名が死亡し 結局、淀の方は、徳川方の出した和解案に乗ってしまい、外堀だけでなく、二の丸あたりの内堀まで埋められて大坂城は完全に裸城となってしまう。
1615年 再び、大坂城を攻め戦が始まる(大坂夏の陣)
同年
5月6日
若江・道明寺の戦いにて後藤又兵衛(基次)・木村重成らと共に戦い勝利を得た後に伊達政宗軍との交戦になる。
同年
5月7日
幸村は大助を大坂城を守るため大坂城中に送る。 しかし大坂城は苦戦しているため、豊臣秀頼は、幸村軍に退却命令を出し、幸村は道明寺より大坂城に退却する途中に戦勝を日蔭明神(当神社)に祈願し、軍旗と刀剣を奉納する。
同年
5月8日
ご利益により次々と奮闘するが、豊臣方本体の苦戦もあいまって、「この情勢を覆すは、家康の首を狙うしかない。」と一発逆転を狙い徳川家康の本陣目掛けて決死の突撃を毛利勝永(かつなが)軍、明石全登(たけのり)軍とともに行い、家康本陣営に肉薄し、越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らし、家康の馬印を倒す。このときの真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。しかし最終的には、数に勝る徳川軍に圧倒されついに安居神社境内にて味方兵士を看病しているところを襲われ越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次にその首を授けた。
享年49歳の最後であった。

真田幸村公のお名前

戦国の世に生きた幸村公は、後に天下統一を果たす徳川家康に「日本一の兵(つわもの)」と言わしめた知略と勇気にあふれた武将です。真田家が旗印にした「六文銭」とは、三途の川の渡し賃であり、自らの退路を断ち決死の覚悟で戦いに活路を見出すいう「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の心意気を表しています。そのような幸村公が戦での勝利を祈願しご利益を得たのが志紀長吉神社です。その際に奉納された幸村公の軍旗が今も大切に保存してあります。 軍旗とともに奉納された刀剣は、終戦後GHQにより没収されました。赤地に六文銭を染め抜いた軍旗は幸村公だけのものです。
当神社の大鳥居のそばに幸村公休息所の碑が昭和10年より建立されており、碑の裏には「ご神徳を讃え奉りて幸村 家が思う心の内の霧晴れて神の利益(りやく)に任せこそすれ」と謳われています。
真田幸村の名前は一般的には幸村で通っているが本名は真田信繁が正しい名前である。江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになったとされる。
平成24年度真田幸村公戦勝祈願祭 社宝 六文銭軍旗のご紹介

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志紀長吉神社
大阪市平野区長吉長原2-8-23
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TEL:06-6709-1757
FAX:06-6709-2083

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市バス長吉六反停西へ100m

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地下鉄出戸駅東へ800m