大坂の陣から約400年
軍旗奉納 再現
※今年は催し物は行いません。
13:00 真田幸村公休息所→参道パレード→
13:30 志紀長吉神社(軍旗・刀剣奉納・戦勝祈願祭・演舞等のイベント)
軍旗特別公開 午前10時~午後4時まで
● 社宝 「真田幸村公奉納 六文銭軍旗」特別公開
10:00~16:00 志紀長吉神社内にて
軍旗奉納 再現
※今年は催し物は行いません。
13:00 真田幸村公休息所→参道パレード→
13:30 志紀長吉神社(軍旗・刀剣奉納・戦勝祈願祭・演舞等のイベント)
軍旗特別公開 午前10時~午後4時まで
● 社宝 「真田幸村公奉納 六文銭軍旗」特別公開
10:00~16:00 志紀長吉神社内にて
真田幸村公の生涯
永禄10年(西暦1567)
武田信玄配下で信濃国上田城主である名将真田昌幸の次男として生誕
天正14~17年(1586~9)
父昌幸の仲介により豊臣秀吉に仕え、兄の信之は徳川家康に仕える。
慶長5年(1600)
昌幸・信幸・幸村・家康と共に会津の上杉景勝を討つため関東に向かうが後日豊臣家五奉行から、家康を討つべき旨が出される。昌幸らの陣に石田三成の使者が到着する。昌幸・信幸・幸村の三人で真田家の去就を話し合い昌幸・幸村は西軍につき、徳川の陣を離れ、上田に向かう。信幸は徳川方に残り、その旨を家康に報告秀忠軍、昌幸、幸村の篭る上田城を攻めて敗れる。 関ヶ原の合戦で豊臣軍が敗れる。 家康より、昌幸・幸村、高野山麓の九度山に配流されるが十一年後父昌幸病死
慶長19年(1614)
家康が大坂城攻めに動き出す。幸村、豊臣秀頼より要請を受け子の大助と共に(大坂冬の陣) 九度山を出て大坂城へ。真田軍を設けて豊臣を守る。家康、真田軍攻めたが敗退後に徳川・豊臣共に和解した。
慶長20年(1615)
再び大阪城を攻め戦になる。
(大坂夏の陣)
5月6日
八尾・若江合戦では、木村重成軍 道明寺・誉田合戦では、後藤又兵衛軍が壊滅しました。
5月7日
幸村、大助を大坂城中に送り、守らせ幸村公は家康本陣へ突撃。大阪城は苦戦、幸村軍に退却命令を出し道明寺から大坂城に戻る際に戦勝を日蔭明神(当神社)に祈り、軍旗と刀剣を奉納し、ご利益により次々と倒されましたが途中茶臼山にて激戦の末、幸村公は壮烈な最期を遂げられました。
武田信玄配下で信濃国上田城主である名将真田昌幸の次男として生誕
天正14~17年(1586~9)
父昌幸の仲介により豊臣秀吉に仕え、兄の信之は徳川家康に仕える。
慶長5年(1600)
昌幸・信幸・幸村・家康と共に会津の上杉景勝を討つため関東に向かうが後日豊臣家五奉行から、家康を討つべき旨が出される。昌幸らの陣に石田三成の使者が到着する。昌幸・信幸・幸村の三人で真田家の去就を話し合い昌幸・幸村は西軍につき、徳川の陣を離れ、上田に向かう。信幸は徳川方に残り、その旨を家康に報告秀忠軍、昌幸、幸村の篭る上田城を攻めて敗れる。 関ヶ原の合戦で豊臣軍が敗れる。 家康より、昌幸・幸村、高野山麓の九度山に配流されるが十一年後父昌幸病死
慶長19年(1614)
家康が大坂城攻めに動き出す。幸村、豊臣秀頼より要請を受け子の大助と共に(大坂冬の陣) 九度山を出て大坂城へ。真田軍を設けて豊臣を守る。家康、真田軍攻めたが敗退後に徳川・豊臣共に和解した。
慶長20年(1615)
再び大阪城を攻め戦になる。
(大坂夏の陣)
5月6日
八尾・若江合戦では、木村重成軍 道明寺・誉田合戦では、後藤又兵衛軍が壊滅しました。
5月7日
幸村、大助を大坂城中に送り、守らせ幸村公は家康本陣へ突撃。大阪城は苦戦、幸村軍に退却命令を出し道明寺から大坂城に戻る際に戦勝を日蔭明神(当神社)に祈り、軍旗と刀剣を奉納し、ご利益により次々と倒されましたが途中茶臼山にて激戦の末、幸村公は壮烈な最期を遂げられました。
大坂の役で、徳川20万に対して、少数精鋭のみで善戦した戦国の猛将「真田幸村(信繁)公」の旗印、六文銭を入れた知略・勇気のお守りです。
戦国の世に生きた真田信繁(幸村)公は、後に天下統一を果たした徳川家康に「日ノ本一の兵(つわもの)」と言わしめた知略と勇気に溢れた武将です。あと、十年早く生まれていれば天下も夢ではなかったとする歴史学者もいるほどです。
真田家が旗印にした「六文銭」とは傘寿の川の渡し賃であり、自らの退路を断ち、決死の覚悟での戦いに活路を見出すという「不惜身命」の心意気を表しています。
そんな幸村公が戦での勝利を祈願し、ご利益を得られたのが当神社、志紀長吉神社です。その際に奉納された幸村公の軍旗が今も神宝として大切に保存されています。
赤地に六文銭を染めぬいた軍旗は幸村公だけのものでした。これにちなみ、志紀長吉神社では赤地に六文銭を描いた勝御守を奉製致しました。
幸村公の知略と勇気を授かり、勝利をつかみとって下さい。
1つ800円(お求めはこちらから)
戦国の世に生きた真田信繁(幸村)公は、後に天下統一を果たした徳川家康に「日ノ本一の兵(つわもの)」と言わしめた知略と勇気に溢れた武将です。あと、十年早く生まれていれば天下も夢ではなかったとする歴史学者もいるほどです。
真田家が旗印にした「六文銭」とは傘寿の川の渡し賃であり、自らの退路を断ち、決死の覚悟での戦いに活路を見出すという「不惜身命」の心意気を表しています。
そんな幸村公が戦での勝利を祈願し、ご利益を得られたのが当神社、志紀長吉神社です。その際に奉納された幸村公の軍旗が今も神宝として大切に保存されています。
赤地に六文銭を染めぬいた軍旗は幸村公だけのものでした。これにちなみ、志紀長吉神社では赤地に六文銭を描いた勝御守を奉製致しました。
幸村公の知略と勇気を授かり、勝利をつかみとって下さい。
1つ800円(お求めはこちらから)