志紀長吉神社の社宝

慶長20年(1615)大坂夏の陣に、真田幸村が戦勝を日蔭大明神(当神社)に祈願の際、神社の馬場にて休息しました。この時に軍旗と刀剣を奉納されましたが、刀剣は終戦後没収、軍旗はそのまま神社で保存しています。また、幸村休息所の碑は、大鳥居そばに建立されています。

六文銭軍旗  (真田幸村奉納)

赤地に黒の六文銭の旗は、あまりに有名な真田幸村の軍旗。「大阪夏の陣図屏風」に、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものです。 真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと言われています。

奉納軍旗を一般公開しています。

例年正月2・3日5月4日 午前10時~午後4時
※平成28年のみ毎月第3日曜日も公開しておりました。

願旗・大願旗奉納のご案内

大鳥居そばの幸村休息所

豊臣氏を滅亡へ追いやった大坂夏の陣は、慶長20年(1615)5月6日豊臣方は、道明寺の戦い・八尾の戦い・若江の戦いに苦戦を強いられた。道明寺まで進ん だ真田幸村は、現在の平野区長吉あたりまで退却しひと休みし志紀長吉神社に戦勝を祈願しました。この時に幸村は神社に六文銭の紋章が描かれた軍旗と刀を奉納しましたが、刀は第二次世界大 戦後に没収された。当社大鳥居のそばに真田幸村休憩所の碑が建っている。右にある写真をクリックしていただくと表面、裏面の両面をごらんいただけます。
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真田幸村公の生涯

永禄10年(西暦1567)
武田信玄配下で信濃国上田城主である名将真田昌幸の次男として生誕
天正14~17年(1586~9)
父昌幸の仲介により豊臣秀吉に仕え、兄の信之は徳川家康に仕える。
慶長5年(1600)
昌幸・信幸・幸村・家康と共に会津の上杉景勝を討つため関東に向かうが後日豊臣家五奉行から、家康を討つべき旨が出される。昌幸らの陣に石田三成の使者が到着する。昌幸・信幸・幸村の三人で真田家の去就を話し合い昌幸・幸村は西軍につき、徳川の陣を離れ、上田に向かう。信幸は徳川方に残り、その旨を家康に報告秀忠軍、昌幸、幸村の篭る上田城を攻めて敗れる。 関ヶ原の合戦で豊臣軍が敗れる。 家康より、昌幸・幸村、高野山麓の九度山に配流されるが十一年後父昌幸病死
慶長19年(1614)
家康が大坂城攻めに動き出す。幸村、豊臣秀頼より要請を受け子の大助と共に(大坂冬の陣) 九度山を出て大坂城へ。真田軍を設けて豊臣を守る。家康、真田軍攻めたが敗退後に徳川・豊臣共に和解した。

慶長20年(1615)
再び大阪城を攻め戦になる。
(大坂夏の陣)
5月6日
八尾・若江合戦では、木村重成軍 道明寺・誉田合戦では、後藤又兵衛軍が壊滅しました。
5月7日
幸村、大助を大坂城中に送り、守らせ幸村公は家康本陣へ突撃。大阪城は苦戦、幸村軍に退却命令を出し道明寺から大坂城に戻る際に戦勝を日蔭明神(当神社)に祈り、軍旗と刀剣を奉納し、ご利益により次々と倒されましたが途中茶臼山にて激戦の末、幸村公は壮烈な最期を遂げられました。

志紀長吉神社の社宝は他にも多数ございますが現在は公的機関に保管されています。
大阪市立美術館
弘法大師像(南北朝時代)
牛頭天王曼荼羅
法華経八巻
大阪市立博物館一括(11点) 詳しくご紹介しているサイトはこちら
後亀山天皇懐紙、後柏原天皇和歌懐紙、後奈良天皇和歌懐紙、杉原七左衛門家次書状、三好実林禁制、織田信長禁制、木下籐吉郎書状、豊臣秀吉書状、徳川秀忠書状
真田幸村公と志紀長吉神社 平成24年度真田幸村公戦勝祈願祭

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志紀長吉神社
大阪市平野区長吉長原2-8-23
市営谷町線「長原」駅徒歩5分
TEL:06-6709-1757
FAX:06-6709-2083

赤坂神社
大阪市平野区長吉六反1-14-24
市バス長吉六反停西へ100m

産土神社
大阪市平野区長吉出戸6-10-14
地下鉄出戸駅東へ800m